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今日の殿様。

お殿様一行の列に、蝶々を追う幼い子供が飛び込み、
駕籠者の足にぶつかり列をとめてしまった時のこと。
町人は皆いっしゅんにして凍りつき、
中には手で顔をふさぎこむものもいました。
慌てて父親が列に飛び込み、子供の頬を加減なく叩きます。
転んだ子供に、もうひと発、ふた発、何度も頬を叩きます。
父親は、こうする他に我が子を救う方法はないと考えたのです。
しかし子供はまだ幼いがため、
見たことのない父のその表情と、また頬の痛みに驚き、大きな声で泣いてしまいました。

列は止まったまま、とうとう駕籠の中からお殿様の声です。
駕籠を降ろすよう指示があったのか、お殿様が出てきました。
町人は額を地面に寄せながら、ごくりと唾をのみます。

「泣かないでよい」

お殿様が子供に向けてかけた言葉は、
皆の予想とは逆の、穏やかなものでした。
そうして子供の頭をぽんと優しく撫で、
あろうことか鼻水を手でふいてやったのです。
目を疑うようなその光景に父親は思わず感極まり、
地面に平伏しながら涙し、何度も何度も感謝の念を伝えます。

「泣かないでよい」
「叩かないでよい」
お殿様はまたそう言ってしゃがみこみ、
今度は父親の鼻水をふいてやりました。
それを見た町人も次々に涙を流し、
とうとう駕籠者や槍持ちなど、
家来までもが皆泣いてしまいました。

「泣かないでよい」
「もらい泣きしないでよい」
お殿様はそういって皆の鼻水をふいてやります。
皆の鼻水をふきおわる頃には、
あたりはすっかり夜になり、
お殿様の右手はふにゃふにゃになってしまいました。

「ふにゃふにゃにならなくてよい」
お殿様はそう言って、右手を優しく撫でてやりました。
それを見た左手が感動のあまり思わずふにゃふにゃになってしまいました。

「ふにゃふにゃにならなくてよい」
「もらいふにゃふにゃしないでよい」
お殿様はそう言って、両手を胸元で抱いてやりました。

ちょんまげのてっぺんには蝶々がとまりました。

名を、徳川優々
(とくがわやさやさ)
日本史上、最も優しかったとされているお殿様のお話です。
おわり